ラーメンに関する最新ニュースはラーメンニュース

ラーメンニュースは、新聞・通信社が配信するニュース提供元からラーメンに関する最新情報のほか、映像、雑誌や個人の書き手が執筆する記事など多種多様なニュースを掲載しています。



インスタントラーメン~戦後生まれの「国民食」


新食品・即席ラーメン誕生

1958年(昭和33)8月25日、大阪のサンシー殖産(現在の日清食品)から「チキンラーメン」が発売されました。「お湯をかけて2分間」で食べることのできるこの商品は、年末には生産が追いつかなくなるほどの大人気商品となります。翌59年に大阪の梅新製菓(現在のエースコック)が「エースコックの即席ラーメン」を、60年には東京の明星食品が「明星味付けラーメン」を発売したのを代表例として、後を追う生産メーカーが次々にあらわれたのです。
58年度には1300万食であった生産数は翌59年には7000万、60年に1億5000万、61年に5億5000万、62年に10億食、63年には20億食と急速な伸びを見せて、「即席ラーメン」という新しい食品は、市場で確固たる地位を獲得したのです。
この人気は、日清食品の創始者である安藤百福が、「チキンラーメン」の開発にあたって掲げた方針――
1.おいしいこと
2.保存性があること
3.便利であること
4.安価であること
5.安全であること
以上の五つが、当時の消費者の嗜好にあっていて、また、新聞やテレビを通じた大々的なコマーシャルが、商品イメージ浸透の大きな力となったのも見逃せません。折からの家電ブームのなか、55年に発売された自動式電気釜も、この頃に大ブームを迎えていました。家事労働における合理性とスピードの追求のハードウェアが家電であるならば、即席ラーメンをはじめとするインスタント食品は、そのソフトウェアにあたるといえるでしょう。

関西風か、関東風か

次々と誕生した初期のインスタントラーメンの中には、先発商品である「チキンラーメン」のパッケージデザインや色、名称、製法が酷似したものもありました。1958年(昭和33)の12月に改称した日清食品は、この分野の意匠登録、商標登録、製法特許の諸権利を守ることに尽力しつつ、パッケージの意匠登録に関しては60年に、「チキンラーメン」の商標登録に関しては61年9月に、製法特許に関しては、紆余曲折を経ながら64年に権利を確定させました。
こうした動きのなか、味付けした麺を油で揚げたものではなく、油で揚げた麺とスープを分けた製品が登場したのです。62年の4月10日に登場した明星食品の「明星ラーメン」は、麺と粉末スープ、乾燥させたメンマをつけて、従来製品と同じ85g(グラム)入りの一袋が35円で発売されました。この方法では、スープや具材の入った袋を開ける手間が増えて、即席ラーメンの利点である簡便性で分が悪く、また、どんぶりに麺をあけて湯を注ぐという従来の方法と併記されてパッケージ裏面で紹介された、鍋で麺と具とスープを煮てどんぶりに移すという方法と案内は、調理の過程を増やすような案内で、やはり簡便性の面で劣るように懸念されましたが、麺の味がより中華麺に近くなったため、人気を獲得したのです。これに自信を得た明星食品は、同年6月14日、特許権で係争の存在する味付け方式の「明星味付ラーメン」の生産を中止して、スープ別添え方式の浸透を図るため、鍋を使う調理法のアピールに取りかかったのです。そして片手鍋と製品をセットにしたサンプルを各地で配布するなどして、「お鍋でグラっと2分間」というキャッチコピーで宣伝を行ない消費者に受け容れられていきます。現在袋ラーメンにおいて主流の鍋を使った調理方法が、この時期、確立されたわけなのです。
スープ別途方式の製品は、麺に味付けをする必要がなくて、スープに個性を持たせる事が容易であるため、インスタントラーメンはその味や種類の可能性を拡げていったのです。そして日清食品の「チキンラーメンニュータッチ冷麺」(62年6月)、「日清やきそば」(63年7月)、東洋水産の「マルちゃんたぬきそば」(63年8月)、エースコックの「ワンタンメン」などが出て、インスタント化の流れは、「ラーメン」の枠からはずれていき、麺類全体に広がっていったのです。

「あさま山荘」の機動隊員とカップラーメン

1971年(昭和46)、日清食品から再び新しい概念のインスタントラーメンである、「カップヌードル」が発売されました。「チキンラーメン」の登場から13年を経ていた当時、スーパーマーケットの普及といった物流形態の変化、冷蔵庫の2ドア化、大型化といった生活環境の変化があり、冷凍食品を筆頭に、加工食品の種類は多様化していた時代です。即席ラーメンの分野でも、さまざまな工夫を凝らした製品が開発され続けていったのですが、66年に30億食を数えた生産数は、67年に31億、68年に33億、69年に35億、70年に37億と、それまでの5年間と比較しても低い伸び率を示していたのです。飽和状態の市場に「カップラーメン」は新たな風を吹き込み、インスタントラーメンという製品のライフサイクルの軌道を修正する働きを示したのです。
「カップヌードル」は、日清食品の社長である安藤百福が、市場調査のためにアメリカに渡った際、どんぶりと箸で食べる製品開発コンセプトの限界を覚えて、使い捨ての紙コップの普及した姿をみて、機内食のマカデミアナッツのパッケージからインスピレーションを感じて、生み出された製品といわれています。縦長のカップには、それまでにはない、さまざまなアイディアと技術が導入されていたのです。
発泡スチロール製の容器に入れられた麺は、その中間にすっぽりとはまって、輸送中に麺と容器の両方を守る「中間保持」の構造であり、上部が密で下部が疎の麺は湯通りを良くして、上部にのせられた具材は、商業ベースとしてはじめてのフリーズドライ化された固形物です。100円という売価は、事前調査で高額すぎるという評価を受けたため、この製品に独特な販路が考えられて、百貨店や官公庁、自衛隊での販売が決まり、専用の自動販売機による販売という新しい方法が考えられて、巧みな宣伝活動によって人気を得たのです。
72年2月の「あさま山荘事件」に出動した機動隊員が配布された「カップヌードル」を食べる姿がテレビに映されて、お湯と箸やフォークがあればどこでも食べることのできるこの製品の特徴が知れ渡った話はあまりに有名です。