<東京の立川店で「クリーミーさと骨っぽさがうちの売りです」と語る吉村幸助さん>
東京都立川市に完成したばかりの大型商業施設。昨年12月のオープン当日、真新しいフードコートに足を踏み入れると、どこか懐かしいにおいが漂ってきました。豚骨独特の獣臭-。その元をたどると、福岡市博多区に本店を置く「博多一幸舎」の支店があったのです。
「このにおいも九州の豚骨ラーメンの良さ。東京でもそこは貫いています」。出店に立ち会うために立川を訪れていた店主、吉村幸助さん(39)はそう話します。においに誘われ、たまらずラーメンを注文しました。
表面に泡が浮かんだ、いかにも濃厚そうな一杯です。
スープをすすってみると、見た目に違わず濃い味で舌を力強く刺激してくるインパクトのある味わいです。
勢いは味だけではありません。一幸舎は積極的な店舗展開を続けるのです。
立川店は国内で13店目です。ライセンス契約など形態はさまざまですが、海外にもインドネシア、米国など7カ国・地域に計31店を構えています。
取材した日も、吉村さんは中国から帰国したばかりでした。
「来週からは台湾です」と国内外を忙しく飛び回るのです。
福岡市出身。19歳で最初に飛び込んだのは建設業界です。ただし、父親は板前、母親は小料理店を経営していたのですから、飲食業界につながりはあったということですね。
ある日、母の店の常連客だったギョーザ店主から「ギョーザ、覚えてみらん」と声を掛けられたのです。「作れたらかっこいいかも」と、軽い気持ちで習いに行くうちに、飲食業に心が動いたということです。「ギョーザ店は繁盛していました。
一方の建設業界は不況です。将来への不安もありました」。23歳で母親の店に入りました。
「知人がラーメン店を立ち上げるから手伝ってほしい」。1年半ほど働いた頃、ギョーザ店主から誘いを受けました。
京都でラーメンを学んだ経験を持つ店主に手ほどきを受けて、福岡市に開業した店で店長として働き始めたのです。
一幸舎の創業は2004年、店長として3年間経験を積んだ後のことです。
それまで作っていたのは背脂を混ぜたしょうゆ豚骨です。
しかし、創業の際「豚骨100%、パンチのある味」にこだわりました。
時間差で炊いた二つのスープをブレンドした濃厚な豚骨はすぐに人気となり、翌年にはキャナルシティ博多内の「ラーメンスタジアム」(福岡市)に出店します。
06年に県外、11年には海外にも店舗を広げていったのです。
ここ数年経営側に軸足を置いていた吉村さんは今、ある計画を進めています。
年内にも福岡市に新たな店をオープンさせて、自ら厨房(ちゅうぼう)に入るというのです。
「原点に返って、これまでの経験を踏まえた新しい味を追究したい。職人としての腕試しでもあるし、スタッフにもその姿を見せたいんです」
3代目 中洲と山笠愛も次ぐ 博多荘(福岡市博多区)
<「先代、先々代と同じ道を歩んでいます」と語る3代目の井上倫清さん>
九州一の歓楽街、中洲(福岡市博多区)は博多ラーメンの歴史を語る上で外せない場所でもあります。
市内初のラーメン店は1940年ごろに福岡玉屋横で開業した「三馬路(さんまろ)」。
その屋台は既になくなったのですが、次に古いとされる「博多荘」は、46年のオープン以来ずっとのれんを守り続けているのです。
現在、店を仕切る3代目の井上倫清(ともきよ)さん(47)に話を聞くと、創業したのは井上さんの祖父、清左衛門さんです。
戦後に職を失って、飲食業で生計を立てようと再出発したのが始まりだということです。
ラーメンの存在すらほとんど知られていない時代です。開業にあたっては、当時中洲にあった中華料理店「福新楼」の2代目張兆順さんから手ほどきを受けたということです。
メニューの表記も「中華そば」。井上さんは「豚骨でしたが、今のような白濁スープではなかったらしいです」と言うのです。
船出は多難でしたが、戦禍を被った中洲の復興と歩調を合わせて、店も人気を博します。
48年には戦争で一時中断していた博多祇園山笠が復活します。
“山のぼせ”だった清左衛門さんはその翌年の「中洲流(ながれ)」発足に尽力し、店は山笠関係者でもにぎわうようになったのです。
そんな清左衛門さんの背中を見て育った、井上さんの父幹二さん(73)も中洲と山笠、そしてラーメンを愛しました。
大学を辞めて、家業を手伝うようになって、25歳で結婚した後は福岡県太宰府市に「ドライブイン博多荘」を開いたのです。
72年に清左衛門さんが亡くなると中洲の店を継ぎました。そしてお店は昼はデパートや映画館帰りの客、夜は酔客であふれたのです。「毎日がお祭りのようでした」と井上さんは言います。
3代目への代替わりは突然やってきました。2001年7月9日、幹二さんが自宅近くでバイクにはねられたのです。翌日に予定されていた山笠の物故者を弔う「追善山」で、博多祝い唄(うた)を歌う大役を任されていました。命はとりとめたのですが、半身不随となったのです。「父と親交のあった中洲の人たちが助けてくれました」。19歳で店に入って、幹二さんに付いて修業していた井上さんは、地域に支えられながら営業を続けています。
「祖父と父は偉大な存在。受け継いだ味を守っていくだけです」。そう語る井上さんが作った一杯を味わいました。「場所柄締めに食べる人が多い。飲んだ後に最適ですよ」と言うスープは、言葉通りのあっさり味です。甘みのある豚骨だしを感じながら、スープまで飲み干しました。
井上さんは中洲に恩義を感じています。
中洲流にはもちろん参加し、09年から始まった屋外ライブイベント「NAKASU JAZZ」にも携わっています。「往年のにぎわいがなくなった。お世話になった中洲をもう一度盛り上げたいんです」