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白濁豚骨”源流の味”磨く うちだラーメン(福岡県筑紫野市)


<30年ほど前からは自家製麺を始めた。内田国利さんは「麺一玉の量も普通の店より多いですよ」>
車が行き交う福岡県筑紫野市の幹線道路沿いに、7月、「うちだラーメン」は移転オープンしました。
それ以前は同県那珂川町で20年以上親しまれてきた老舗です。
てっきりそこが創業の地だと思っていたら違ったのです。話を聞けば、“白濁豚骨発祥の店”にもつながるさらに長い歴史があった。
ある休日の昼ごろに訪れると、まだ新しい店内は大盛況でした。背広姿、現場作業員、子連れ、老夫婦と客層も幅広いのです。「ラーメンBセット」の食券を買って席に着くと、数分で配膳されました。濃厚そうな、ぎらぎらした一杯です。
お玉のように大きなレンゲでスープをすすると、見た目に違わぬ豚骨の力強い味わいです。
大ぶりなチャーシュー、味がよく絡んだ中太麺も食べ応え十分です。
セットには「小」とは思えない量のご飯とギョーザ、さらにサラダと漬物が付きます。食後の満腹感も魅力なのです。
初めてこのラーメンを食べたのは十数年前、まだ那珂川町にあった頃だったのです。
味はもちろん、客層の広さ、食べきれないほどの量も、今と同じです。
店は「内田」という名前の交差点そばにあったのです。だからでしょうか、そこで生まれたのだと思い込んでいたのです。
「交差点名は偶然。もともとは高宮が発祥よ」。店主の内田国利さん(68)はそう教えてくれました。
1965年、福岡市南区高宮の実家を改装して「光栄軒」をオープンさせたのです。きっかけは同県久留米市でしょうゆの卸商をしていた親戚の勧めだったのです。それまでは大工の見習いです。ラーメンの作り方など知らなかったが、親戚が知り合いの職人を手配していたのです。
やって来たのは杉野勝見さん(故人)と四ケ所日出光さん(87)=佐賀市=の2人です。白濁豚骨発祥の店「三九」(久留米市)を経営して、北九州、佐賀、熊本にその味を広めて、九州に豚骨ラーメンを普及させた立役者なのです。スープ作り、麺上げを習ったが「向こうも商売だから本当のこつは教えん。その後は我流よ」。
うまけりゃいい、量が多けりゃいい、けちは嫌-。それが内田さんの信条なのです。
開店当初は売れなかったのですが、久留米ラーメンという珍しさもあって徐々に人気となったのです。
特に出前注文が多く、最盛期にはアルバイトを7人雇って一日に100軒以上配達していたのです。
25年ほど高宮で営業したのですが「出前で交通事故を起こしそう」と店舗だけでの営業を模索したのです。
那珂川町に場所を見つけ、名字にちなんで店名も変えたのです。
移転先でも、その味と量は多くの客をとりこにしたのです。しかし近年、駐車場の台数確保が難しくなったこともあり再移転を決めました。
創業以来、一貫して久留米ラーメンを掲げ、高宮、那珂川、筑紫野と場所を移しつつ、白濁豚骨の発祥に連なる味を伝えてきたのです。
「結果的にそうなっただけ。うまから(おいしいなら)売れる。うまなからな(おいしくないなら)売れん。それだけよ」と潔いです。

脇役、愛され看板メニューに そば処まさや(福岡市中央区)
<店の前に立つ宮原猛雄さん(左)と厨房を任されている息子の浩二さん。客からは「看板ば変えんね」とよく言われるという>
福岡市中央区薬院の裏通りにある雑居ビルです。掲げられた看板には「そば処 まさや」と大きく書かれているのです。
当然、そば店だと思ってのれんをくぐったが、そこには予想外の光景があったのです。客がおいしそうにすすっているのは、ラーメンなのです。
「45年ほど前から本格的に始めたのですが、今では半数以上のお客さんがラーメンを注文しますよ」。店主の宮原猛雄さん(85)は言うのです。そしてこれまでの歴史を振り返ってくれました。
熊本県人吉市出身です。「村一番の働き者で養子の引き合いも多かった」と自認する宮原さんは、20歳の時に親戚のつてを頼って福岡市にあった製麺所で働き始めたのです。うどんやそばの麺の製造、配達と早朝から夜まで働き続けました。
転機が訪れたのは1962年のことです。同市東区箱崎にあった得意先の食堂の経営者から「店を畳むつもり」と聞かされました。老齢の女性が切り盛りしていた繁盛店。宮原さんは「もったいない。のれんを継がせてほしい」と頼んだのです。
働き者の宮原さん。配達の途中に自らすすんで米とぎ、包丁研ぎなどを手伝っていたことも影響したのでしょう。
経営者は申し出を受け入れてくれました。その店の屋号こそが「まさや」だったのです。
「配達でうどん屋、そば屋などを回ってたので、だしの取り方などは見慣れ、聞き慣れでできましたよ」。
九州大学にも筥崎宮にも近い立地もあり「毎日、米を1俵炊いていた」ほど売れたのです。
ただ、現状に満足しないのも宮原さんの性格。当時、近くにあったラーメン店「赤のれん」の人気ぶりに触発され、ラーメンの提供を思いつくのです。これも見慣れ、聞き慣れ。豚骨、鶏がらなどをブレンドしてメニューに加えたのですが、全く売れませんでした。
今の味にたどり着いたのは1970年ごろ。薬院で商売をやっていた親戚から、店を閉めることになったから場所を引き継いでほしいと持ちかけられ、現在の場所に薬院支店を出すことになりました。箱崎の店は数年後に閉店しました。
薬院に店を構えた頃、中央区では長浜ラーメンが大流行していました。
食べに行ったが「あまり好みじゃなかった」。ラーメン熱に再び火が付いた宮原さんは、自分の味を追い求めました。そしてたどり着いたのが鶏がらのみのスープです。
部位にもこだわり胴がらは一切使わず、げんこつ(足の関節)だけを煮込んで作り上げました。
「以来、味はそのまま。今でも週1回は食べますよ」。そう語る宮原さんとラーメンを一緒に味わったのです。
茶褐色のスープを口に含むと和風だしと鶏のうま味が広がる。そして、しょうゆのほのかな酸味がその風味を引き立てます。
細麺をずるずるとすすり、最後は丼を傾けてスープも完食しました。丼を置いてふと見ると、宮原さんも最後の一滴まで飲み干していました。そしてこう言ったのです。「うまい」