そのラーメンやなぜ行列する?
みなさんはラーメンやに並ぶでしょうか。 しかし、ラーメンやに並ばないと言う人たちも間違いなくいます。我慢して並ばないという人たちもいますが、そのような人たちは、無理せず、一度大衆に迎合して並べばいいのではないでしょうか。本当に並ばないと言う人たちと、並びたいのに我慢していると言う人たちとは一緒ではありません。
並びたいのに我慢をしている
並びたいのに我慢をしていると言う人たちは一体どのような人たちかと言えば、単に並ぶのが面倒くさいと言う人たちかもしれません。行列に並ぶと言うことは体力も必要であり、高齢者の方々がなかなか出来ることではありませんし、行列に並ぶことこそ、若さのシンボル・特権として、自信満々に並んでいる人たちもいるかもしれません。そのラーメンは行列が出来る程美味しいか確認したいけど、やはり並ぶと言うのは・・・。若いという共通項意識があれば、並ぶと言うことにそれ程面倒くさいと言うことも段々と感じなくなって来るのですが、ちょっとでも若くない人たちは体力がないと言うよりも、そのようなオブラートが剥がされて一体なんのために並ばなければならないのかと思ってしまうのです。
はっきりと言いましょう。たかが、ラーメン、それ程美味しいラーメンだとしても、ラーメンに並ぶ価値があるのでしょうか。おおかた、並ぶというのは、大衆心理なのです。今、並ばないでも、そのうち時間が経てば、並ばないでも簡単に食べることが出来るようになるはずです。その時、ラーメンを食べても、行列に値するとなかなか思えないのではないでしょうか。
君はなぜラーメンやに並ぶの?
ラーメンに行列を作る人たちは、それを何とも思っていない、共同体験をすんなり受け止めることが出来る人たちです。ちょっと大人になれば、もう少し自分で行動を考えた方がいいよと言いたくもなりますが、若いから許すことが出来ます。そして、若い人たちは自分たちが若いということをカテゴリーを作り、そうでない人たちを除外して自慢したいと思っているのです。並びたいと思って、並ぶことが出来ない人たちは、仲間はずれ、疎外感などあり、到底中に自分は入ることが出来ないんだと思っている人たちかもしれません。
共同体験のメリット
若い人たちが作る共同体験によって、そこそこのラーメンでも美味しく感じさせてくれます。実際にそのラーメンがマズイということではなくてある程度以上のラーメンなら、行列に並ぶことで美味しく感じてしまうことになります。行列が行列を作り、そこに共同意識が生まれます。友だちが美味しいねといい、自分もそうだねと言えばコミュニケーションが生まれます。自分たちが並んだ以上、逆ベクトルへ向かい、美味しくなかったと言いたくはないのです。それは共同意識を裏切り、阻害されて行くことを意味します。
そして、もう一つ、行列に並ぶという苦労をすれば、食事を取る以前に運動をしたような意味を持ち、白いメシ一杯だとしても美味しく感じてしまうことでしょう。そして、行列の出来るラーメンやは既に話題になっているため、その話題に参加して、実体験していることに満足し、今度まだそのラーメンを食べていない人たちに自慢してやろうという思いが起こります。つまり、ラーメンやの行列はいろいろな要素がオブラートのように周りを包み込み、本当のラーメンの味なんてぼかされているのです。
ラーメンやには絶対に並ばない
別にやせ我慢というではなくて、ラーメンやに並ばないという人たちもいます。共同体験に参加しなければ情報が収集出来ない・・・なんていうかもしれませんが、共同体験だから、安っぽい情報にも惑わされて、真実がみえなくなることになります。情報は、しっかり自己が見据えて判断しなければなりません。行列に並ぶなと言っている訳ではありません。真実が見極めることが出来、本当に並ぶのが妥当だと思った時に並べと言っているのです。しかし相手がラーメンやなら、ラーメン如きに敢えて並ぶ機会など来ないと言えば、来ないのです。
ここのラーメンやのチャーシューが柔らかい!是非行列しなければ!!いえ、ラーメン如き、ちょっと程度柔らかいチャーシューでも、そこそこのチャーシューが入っていれば、ラーメンの形を成すものです。そもそも、そのような気軽な感じがラーメンの良さのはずです。もっと高級嗜好のものを食べたいと思うのなら、ラーメンでなく、別の食べ物を目指していただきたい。並ぶターゲットが庶民派のラーメンということが変であり、滑稽にもみえます。
その行列の出来るラーメンを食べるなと言っている訳ではありません。行列がひく程度まで待つ、ゆとり、賢さを持ちなさいと言いたいのです。その時、きっと行列のないラーメンに行こうとは思わないでしょうけど。行列が出来るラーメンやの光景、やっぱり何か日本はおかしな文化に染まりつつあり、かなり用心をしなければなりません。