<「こっちでいろいろなラーメンを食べさせてもらって、勉強する毎日です」と語る城戸修さん。支店を出した新横浜ラーメン博物館で、奮闘の日々だ>
福岡市東区名島にある「名島亭」は地元で親しまれる人気店です。創業者の城戸修さんは「一代一店舗」をモットーに、この地でのれんを守り続けてきました。
しかし64歳となった今年、新たな一歩を踏み出したのです。2月に横浜市港北区の新横浜ラーメン博物館に支店を出したのです。
人懐っこい笑顔が印象的な城戸さんです。かつて何度か足を運んだ名島の店では、カウンター越しにお客さんに声を掛け、会話する姿が印象に残っているのです。
場所は横浜に移ってもその姿勢は変わっていません。開店直後、早くもできていた行列のお客さんにも積極的に話しかけていたのです。
「まずは一杯」と、城戸さんから丼を受け取ります。スープを口に含むとほんわか香る豚骨のだしです。
歯応えを残した麺を一気にすすると、豚骨の風味が気持ち良く鼻を抜けました。
この味の源流は、屋台で人気だった「長浜一番」(福岡市)です。ただ、その門をたたいたのは27歳の頃で、それまではオーケストラのホルン奏者だったという異色の経歴を持っています。
九州交響楽団に在籍して腕を磨く一方で、「上には上がいる」とプロとして将来への不安が高まっていたのです。
その際に思い出したのが親戚の言葉だったのです。
「困ったらラーメン屋になれば」。親戚は福岡・長浜で大人気だった「元祖長浜屋」の店主と家族同然の付き合いをしていたのです。
元祖は弟子を取っていなかったため、長浜一番に飛び込んで修業を開始しました。
1987年に36歳で独立し名島亭をオープンしたのですが、味の改良には余念がありません。
ラーメン店「丸八」の渡辺健さん(66)にも教えを請うなど常に向上心を持ち続け、人気店となっていったのです。
支店展開など考えてもいなかった城戸さんの経営哲学を変えたのが、2年前に福岡市で開催された「福岡ラーメンショー」だったのです。城戸さんはこのイベントで、今や世界にも進出する「一風堂」(福岡市)の河原成美さん(62)と一緒にチャンポンを作ったのです。実は河原さんは長浜一番時代に苦楽をともにした弟弟子です。約30年ぶりの共同作業に「昔の大変な思い出がよみがえったし、成美ちゃんの料理人としての姿に影響も受けた」と振り返りです。
翌年「東京ラーメンショー」に出店しました。
全国の有名店の味や仕事ぶりに心を動かされ、「おいしいものを提供できるなら、店舗展開しても構わない」と思うようになったのです。そんな時に新横浜ラーメン博物館から打診があり、これも巡り合わせと出店を決意しました。
ホルン(horn)は本来「角」を意味し、転じて山頂を指すこともあります。
趣味は登山で、3千メートル級の山々を踏破する本格派です。
仕事では、音楽から身を転じてラーメンの世界で山頂を目指すのです。
城戸さんは「頂上には一気には登れないし、近道もない。迷ったら引き返す。ゆっくりとですね」。
運命の一杯、ほれ込み脱サラ 丸八 朝倉店(福岡県筑前町)
<師匠が使っていたものと同じサイズの大釜を前にする伊藤信一さんと妻の智子さん>
かつて福岡市に「丸八」という人気ラーメン店がありました。
博多区で生まれ、南区に復活したが、惜しまれつつ2006年に店をたたんだのです。「丸八 朝倉店」(福岡県筑前町)は、多くのラーメン好きをうならせた、その味を引き継いでいるのです。
厨房(ちゅうぼう)では店主の伊藤信一さん(59)がせわしなく動きます。
ストイックに仕事に打ち込む姿はベテラン職人という感じなのですが、実は10年ほど前までサラリーマンだったというから驚きました。
「脱サラしたのは師匠のラーメンを食べたから。あまりにもおいしくて」。伊藤さんは表情を緩ませてそう語りました。
師匠とは、丸八を経営していた渡辺健さん(66)。当時、同市南区皿山に店を構えていたのです。一方の伊藤さんはラーメンの食べ歩きが趣味の営業マンです。
客として丸八ののれんをくぐり、運命の一杯と出会ったのです。
「カプチーノのような濃厚なスープ。『これだっ!』と思ったんです」。
ラーメン店を出したいという夢を胸に秘めていた伊藤さん。丸八に通い詰め、ある日弟子入りを志願しました。
その熱意が認められて“入門”がかなうと、04年に二十数年勤めた会社を辞めたのです。
直径75センチの大釜で3日間かけて炊くスープの取り方、チャーシュー、ギョーザのタレの作り方まで頭と体にたたき込みました。
約1年の修業を経て05年に現在の場所に店をオープンしたのです。
丸八創業者の渡辺さんは現在、ふぐ割烹(かっぽう)「油山山荘」(同市城南区)の板長としての日々を送っています。
「弟子を取らんごとしとったけど熱心さに負けた。とにかく真面目でしたよ」。渡辺さんは、まな弟子をそう評します。そして丸八の歴史も教えてくれました。
もともと和食の料理人で、26歳で油山山荘を始めました。
当初、店では鶏料理を主にしていたが「好物だったラーメンに挑戦したい」と久留米に乗り込んで作り方を学んだのです。
牛、鶏、豚、魚介とさまざまな材料を試し、濃厚な豚骨スープにたどり着く。1989年に同市博多区西月隈に丸八を開店しました。
店は繁盛したのですが、油山山荘との二足のわらじ。「寝る暇もなかった」と体調を崩して10年で閉店しました。しかしラーメンへの思いを断ち切れず、2003年に店を皿山に移して再開するのです。そこも人気店となったのですが、ふぐの提供を本格的に始めた割烹が忙しくなり、06年に再び店を閉じてしまいました。ちなみに油山山荘は「ミシュランガイド福岡・佐賀2014特別版」で二つ星を獲得しています。